セカンド・スカイ 6
第6話
子供の頃、親によく聞かされた話がある。
昔話。
まだ人類が幼い頃、この地球には二種類の人間が住んでいたのだ――と。
「ね、ケイ。あの人たちは、悪い人たちじゃなかったの。それだけは」
そう言って母は、自分の頭を優しく撫でる。今となってはもう朧な記憶。話の内容すらも一緒に手を繋いで、ほとんど思い出せない脳の奥へと歩き去ってしまったけれど。
***
「ケイ。言いたいこと分かるよね」
第一空区に戻ると、アユハが基地の入口に仁王立ちで立っていた。他の隊員は、ある者はそそくさとその場をさり、ある者は興味津々にこのやり取りを眺め、ある者はもう見飽きたのか無関心。
「ああ、まあ……」
これ以上油を注がないように、静かに頷く。アユハは無言、無表情で。大きく息を吸って、何かを呑み込むように、押しとどめるようにアユハはぎゅっと瞬いた。
「――もっと周りを頼って」
そう言われても、とケイは眉を寄せる。それができなかったから突っ込んだわけで。そう思っているのを見透かすようにアユハは目を細める。
「私がいたじゃん」
「……お前は核を狙ってただろ」
「あの子もいた」
もう一人の狙撃要員か。しかしあの子も。
「お前が外したときのために準備してなきゃだろ」
「いい。私が当てる。問題ない」
切れ切れに、はっきりとアユハは強い眼差しに言葉を乗せる。
「ケイが何も言わずに一人で飛び出すから、どこに動くか分からなくて援護できないの。分かるよね? 援護できるのにそれ断って、それで一人で怪我したら馬鹿みたいじゃん」
「はあ、わかったよ」
普段とは全く違うアユハの様子に、今更だがため息をついた。いつもは可愛い顔をしてるのに、こういうときは指揮官の顔になる。
「とにかく、何でも一人でやろうとしないで。分かった? 約束してよね」
「ああ、分かった」
「約束したからね? 忘れないでよ。お母さんが約束を守らない男は男じゃないって言ってたんだから」
なんだそれ。だけどまあ、それくらいならいいだろう。援護を頼むくらいなら。結局、援護が実際に貰えるかどうかは別問題だ。
「ああ、約束だ」
そう言うと、アユハは口を開いて、少しの間ぽかんと呆けた。きっと簡単に受け入れたことが意外だったのだろう。やがてその顔は疑わしきを見るようなものに変わる。そんなに自分は信用されていないのだろうか。
「――あっ、突っ込みすぎるのもだめ!」
ややあってアユハは叫んだ。
ケイの思惑がばれた。
「こっちは約束じゃないなんて言ってまた突っ込むつもりだったんでしょ! こっちも約束してもらうから!」
「はあ……」
ケイは大きく息を吐いた。ぷんすかと怒るアユハを見やって、全くその通りに事を進めようとしていたのを肯定する。だけど、それは。
「それは無理だ」
アユハがぴたりと動きを止める。悪いがそれだけは、約束するわけにはいかない。
「なんで……?」
どうしてそんなに拘るのか。死雲の怪物に。あの化け物たちを倒すのに。想いが目で伝わってくる。答えは一つしかない。
「それが俺の、やるべきことだからだ」
ただそれだけ伝えて、ケイは踵を返した。これ以上は言えない。たとえ数年来の同じ隊のパートナーでも。アユハは、歩き出すケイを止めようとはしなかった。
***
家に帰り着くと、すっかり陽は暮れていた。そのくらいの時間帯になると、太陽は第一空区よりも下に沈んでいく。斜め下から照らされる僅かな光が、生まれたての夜空を藍色にぼんやり染めて。それを背にケイは、マンションの一部屋に繋がるベランダに降り立った。
部屋は小さいけれど眺めはいい。一人暮らしにはもってこいだ。
スーツ――エアウォーカーを脱ぎ捨て、シンプルなシャツ姿。台所に向かおうと歩く途中で、ふと壁に掛けられた鏡に目を留めた。
――どうしてそんなに拘るのか。アユハの目が思い浮かぶ。
「窮屈だな……」
ケイはシャツすらも脱ぎ捨てる。窓から差し込む残光が、ケイの細身の体の影を部屋の床に広げる。その傍にシャツがぱさりと落ちて、
ばさり、と異形の音がした。
影がその形を忠実に変える。その黒の上に……白い、小さな、鳥の羽のようなものがいくつか、はらはらと落ちていく。
「んん――っ」
今までずっと小さく畳んでいたそれを思いっきり伸ばして、ケイは一緒に背伸びをした。
それに同調するように、ばさりと背中から広がったそれはふるりと震える。
一対の、翼。
空を駆ける鳥の羽を、幾枚も重ねたような。神話に出てくる、ケイにとっては昔話の、空を背に浮かぶ天使のような。
抑えていたのを解き放たれた真っ白で大きな翼は、ケイの背中でほのかな燐光を放つ。
***
遙かな昔には、地球上に二種類の人間がいたという。
歩人族と、翼人族。
体が大きく、大地を支配していた歩人族。後の、現在の人類。今は人間と言えば歩人族を指す。それから、体が小さく、けれどその何倍もの大きさに広がる翼で空を支配した翼人族。
もうこの地球には、翼人族のことを知っている一般人はいないだろう。
絶滅し、語り継がれることもなく、おそらくは過去の鳥類の一種として図鑑にひっそりと載っているだけ。
けれど、ケイは知っている。それは意図的に伏せられていることを。
「これは最重要の機密事項だ。外に漏らすことは固く禁じる」
配属された隊で最初に、戦隊長はそう言った。
今、ケイが所属しているところは広く言えば、国が直接指揮を執る、死雲対策のための組織だ。死雲に関する全ての情報が得られる。
曰く、死雲は意図的に発生させられた災害である。
曰く、発生源には、翼人族が関与している可能性がある。
この一文を聞いたときは、隊員全体に戸惑いの声が漏れていた。ケイを除いて。
翼人族とは。
我ら人間に対して敵対意思を持つ種族である。
遙か太古から存在してきて、その数は減っているが、現在でも確認がとれている。
異質なる種族として、これまで一般には情報が伏せられていた。
次々に明かされる、これまで知りもしなかった情報。見せられる写真。背中に翼を持った、小さな人の。人間の大人半分ほどしかない身長で、けれど写真に収まりきっていない一対の巨大な翼。
きっと、全員が思ったことだろう。
――何だ、この、人間もどきは――と。
「国が秘密裏に捕獲した翼人族から得られた情報だ」
そう言って戦隊長は、ある音声データを再生する。僅かなノイズの後、それは聞こえた。
『歩人族ごときが……!!』
思考に溢れる負の感情を、余すことなく言葉に乗せたような。ひび割れた男のそんな声は、隊員全体に怯えと震えを走らせた。そのまま音声データは続き、翼人族の男の、人間に対する恨み、悪意、敵愾心が、延々と流れ続ける。
その内に、ケイは感じ取った。他の隊員の顔に、その全てに同じ認識が生まれたことに。
すなわち、
「……翼人族ごときが……!」
代弁するように、暗い声で誰かがそう呟いた。
***
前にアユハに、聞かれたことがある。
――どうしてこの隊に入ったの?
ケイは答えた。知りたいことがあったからだ、と。
――それはわかった?
ああ。
よく分かったよ。
俺たちが何をやったのか。俺たちがどう思われているのか。
俺がここで、何をするべきなのか。