AsahiーSPACE

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りんごさん(3)

 僕は一度だけ、雪葉と二人きりで食事に出かけたことがある。

 

 いつもは雪葉の隣に必ずと言っていいほど莉央が歩いているのだけど、その日はなぜか雪葉ひとりだった。満席でパンクしそうになっている食堂の前で立ち尽くしているところへ、僕はたまたま通りがかった。それでどこかの店に食べに行こうとなった。りんごさんは例によって、図書室でおにぎりかサンドイッチにぱくついているだろう。本当はいけないことだけど。

 その日は四月の終わりかけた頃で、ほとんどの学生がゴールデンウィークのことを話題に出す時期だった。

「先輩はゴールデンウィークどうするんですか?」

「アルバイトかな。稼ぎ時で忙しくなるんだ。そっちは?」

 僕たちは白い屋根の定食屋に入って、カウンターに横並びで座っていた。テーブル席まで含めて見渡しても、混んでいるとは言いがたかった。昔ながらのお店でメニュー板はところどころ文字が掠れているし、体を揺らすだけで椅子が軋むし、フリーのネット回線も飛んでいない。でもそこの定食はおいしかった。雪葉はあじフライ定食の小盛り、僕は温玉うどんの大盛りをそれぞれ頼むことにした。

「私は、連休で実家に帰省することにします。こっちでアパートとか寮に入っている人たちはほとんど帰省するみたいですよ。莉央ちゃんも帰るって言ってました」

 雪葉はご飯をふうふう冷ましながらそう言った。大学の近くに、かなり広めのアパートを借りているらしい。どうしてそんなに広いんだと聞いたら、「莉央ちゃんと一緒に住んでいるから」と言われた。僕が認識していた以上に、二人は仲がよすぎるようだった。僕はあまり深く聞かないようにしようと思った。

「実家はけっこう遠い?」と僕は代わりに聞いた。

「遠いです。県境をみっつ越えて、それから山をふたつ越えたくらい」

「ちょっとした旅行みたいだ」

「先輩は、りんごさんと旅行に行ったりしないんですか? ていうか、どこか遊びに行くとか、したことありますか?」

「近場で遊びに行ったことならあるけど、旅行はまだない。雪葉はりんごさんの小説に付き合ってくれているからわかると思うんだけど、りんごさんは小説を書くことにしか興味がないんだ」

「そうですね、たしかに」そう言って雪葉は一匹目のあじフライを食べ終えた。尻尾をぽとんとお皿に落とす。僕はしばらく大盛りのうどんをすすっていたが、半分くらい減ったところで中断し、かちんと音を立てて箸を置く。

「りんごさんは君に、どんなことを聞いてくる?」

「いろんなことです。ありとあらゆることを聞かれます。好きな食べ物、好きな動物、好きな言葉、自分がどんな性格だと思うか、どんな男の人がタイプか、莉央ちゃんのことはどう思っているか、浮気はするかどうか、プロポーズはどんなふうに言われるのが理想か、などなど。私、インタビューで質問攻めにされる総理大臣の気持ちがわかった気がします」

 雪葉は一口だけ水を飲む。グラスを包んだ両手は子供みたいに小さい。

「私、ひとつずつ全部答えてますよ。お寿司です、耳の垂れた犬です、晴れのち晴れです、けっこう自分勝手なほうです、強いて言えば学ランが似合う人です、頼りになってきちんとしたところへ引っ張ってくれる人です、浮気はしません。偉いでしょ?」

「うん、とても。それでプロポーズはどんなのがいいの?」

「最高にすてきな場所がいいですね。たとえば一番高いタワーの展望室にあるレストランとか。私そういうのこだわっちゃうんです。そこで都会の夜景を見下ろしながら食事するんです。周りにはもちろん、他のお客さんがたくさん座ってる。そこはとても高級なレストランで、ぴかぴかに磨かれた白いテーブル席がいくつもあって、身なりがよくて姿勢もいい人たちが集まっているんです。私もドレス着て、相手もぴしっとスーツ着ちゃったりして。それで私の彼が、指輪を出して大声で言うんです。僕と結婚してくれ! ってね。ねえ先輩ここからがいいところですよ? それでね、当然レストラン中にその声は響き渡るわけで、お客さんとかウエイターがみんな私たちのほうを見るんです。でも私ぜんぜんそんなの気にしないんです。指輪を受け取って、はい、って答えて、私たちはキスをするんです。みんなに思いっきり見せつけるみたいにして。それからレストランにいるみんなが、ぱちぱちぱち、って拍手で祝ってくれます。そういうのっていいと思いませんか?」

「うん、わるくない」

 

 僕が隣を見ると、雪葉はぱくぱくと食事を再開していた。二匹目のあじフライに半分だけ醤油をかけて、お茶碗より上でしゃくっとかじる。ほかほかとした湯気の残る白米に、あじフライの衣の破片と醤油が数滴ふりかかる。その白米が、僕には何よりおいしそうに見えた。雪葉は小さな口であじフライを三口かじり、すかさず白米をかなり多めに口の中へ放り込む。どんぐりを頬張るリスみたいになっていた。

「ねえ先輩。私けっこう楽しいんですよ? たしかに質問攻めにされて大変だけど、別に嫌なこと聞かれるわけじゃないし。りんごさんは最初、私とまったく同じ人を主人公にしていることを気にしてたみたいで、それについて説明……謝罪? をいくつか言われたけど、私ぜんぜんそんなの気にしないので。私言いました。何でも聞いてくださいって」

「でもりんごさんは小説ばかりで、退屈になったりしない? 僕といるときでさえ小説のことしか頭にないんだから」

 雪葉はあじフライを半分食べ終えたあと、もう半分にソースをかけた。からしはつけない。

「そうでもないです。私たち、一緒にいるときはほとんどお喋りしかしてないんですよ。それも恋愛事情というか、恋愛相談みたいなことばかり。恋バナしかしてないって言ってもいいんです。私そういうの大好物なんです。私がどんな恋愛をしてきたかとか、これからどんな恋愛をしていきたいかとか。それから、りんごさんからも教えてもらってます。りんごさんと先輩とのこと」

「あまりおもしろいことは聞けなかっただろう?」

「そうですね、残念ながら。まあとにかく、私が言いたいこと話しているだけで、りんごさんはすらすら書き進められているみたいですよ。私は以前のりんごさんがどんなふうに書いていたのかわからないけど、りんごさんが言うには、だいぶ捗っているらしいです。参考になるって。迷うことがなくなったって。それで大丈夫なんでしょうかね? まあ私はいいんですけど。すらすら書けるから、そんなに頑張って机にかじりつく必要もないらしくて、だから私たちずっと恋バナばっかりしています。紅茶とクッキーをお供にして」

 雪葉はそう言って、二匹目のあじフライもきれいに食べてしまった。最後にみそ汁をゆっくりとすする。ここまで来ると冷めてしまっていそうだけど、猫舌だからこれくらいがちょうどいいのだと言った。

「りんごさんは、私のことをなんでも尋ねて、私を理解しようとしてくれます。私のことを知りたいって言ってくれます。まだりんごさんと知り合って二週間くらいしか経ってないのに、あんなに自分のことを話したのって初めてですよ。だから私、すぐにりんごさんと仲良くなれました。私りんごさんのこと好きです。本当ですよ」

 

 その白い屋根の定食屋には、もう骨董品みたいな時計がかかっていたが、辛うじて時刻は正確だった。もうそろそろ午後の講義が始まる。雪葉は最後に僕の方を向いて言った。

「先輩のほうも頑張ってくださいね。なんだか私がりんごさんを独り占めしているみたいで悪いですよ」

「そうだな」と僕は言った。最近りんごさんとあまり会えていない。

「でもあのプロポーズは、僕には難易度が高そうだ」

「先輩、それって私にプロポーズしたいって意味にも取れますけど。私、先輩のことは気に入ってますけど、そういうのはちょっと」

「わかってるよ。君が浮気をしないように、僕も浮気をしない」と僕はあきれて言った。

「そうですよ。私にもちゃんと恋人がいるんですから」

 そう言って雪葉は席を立った。まるで、静かに受話器を置いて電話を切るみたいに。

 

 夜になって、僕はりんごさんのアパートに電話をかけた。繰り返し繰り返しコールが鳴り続けるのを辛抱強く待っていると、十三回目くらいのコールで、ようやくりんごさんは電話に出た。僕はりんごさんに会いたいと言った。

聞きたいことがたくさんある。小説のこと、りんごさんのこと、雪葉とのこと。すらすら書けている? やっぱり雪葉に手伝ってもらってよかったと思う? 二人でどこかへおいしいご飯を食べに行こう。たまには息抜きとか気分転換も必要だよ。そこでいろんな話を聞かせて欲しい。ねえ、りんごさん。

『ごめんね。また今度でもいい? 雪葉ちゃんがゴールデンウィークで実家に帰るって聞いたから、それまでに少しでも書き進めておきたくて。それまではもう全部の時間を小説に使おうと思って。今ここに雪葉ちゃんもいるし、しばらくは無理なの。あ、雪葉ちゃんが代わるって言ってる。代わろうか?』

「いや」と僕は言った。それは言葉になれない音でもあった。

『ごめんね。どこかおいしいお店、探しておいて。じゃあまた』

 そう言ってりんごさんは電話を切った。まるで、席を立って僕から離れていくみたいに。

 僕はしばらく呆然として、耳から離した受話器を見つめていた。「雪葉ちゃん」とりんごさんは言った。それはいったい誰のことだったのだ? その呼び方を彼女が口にするには、あまりに違和感が大きすぎる。雪葉について雪葉以外の呼び方を僕は知らなかった。「今ここに一緒にいる」とりんごさんは言った。彼女が僕以外の人を家に誘えるなんて知らなかった。また、「代わろうか?」とりんごさんは僕に聞いた。僕はそのとき、電話を代わるべきだったのかもしれない。僕もそこへ行ってもいいかな――と言うべきだったのかもしれない。でも僕は何と言っていいのかわからなかった。それだけじゃない。何かを言うこと、何かを意見するということが果たして僕に許されているのか、それさえもわからなかったのだ。