AsahiーSPACE

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りんごさん(2)

 僕は大学で雪葉をよく見かけるようになった。

 

 一年生の教室には、隣に座る学生と、黒板を指差し合いながら話し込む雪葉がいた。ろうかや中庭には、雪葉が「莉央ちゃん」と呼ぶ女の子とぴったり並んで歩いている姿を見つけることができた。雪葉と莉央はほんとうに、この大学でただの学生として当たり前に過ごしている。僕は雪葉から、「先輩」と呼ばれるようになった。

 顔を合わせれば、雪葉は僕に声をかけてくれた。ろうかで会えば講堂の場所を聞かれたり、食堂で会えばおすすめのメニューを聞かれたりする。そんなところだ。

「同じ高校から来た先輩とかいないの?」と僕は聞いてみた。

「いちおういるんですけど、高校のときから特に話さなかったので。今のところ気軽に話せるのは先輩だけです」

 僕たちは食堂に向かって限りなく続く行列の、話し声、笑い声、足音に埋め尽くされた空間の中でそんな話をした。自分たちも負けじと声を張り上げないと、ほんとうに周りの声に押し潰されそうだった。たいていは莉央が先陣を切り、間に雪葉を守って、僕がしんがりをつとめることになっている。

「サークルに入ってみればいいよ。いろんな二年生、三年生と話せる。もちろん同学年の人たちともね。いつまでも僕とだけ喋っていたら、変な価値観を教えてしまうかもしれない」

「変な価値観ってなんですか?」

 と莉央に聞かれる。どちらかといえばおとなしい声をした雪葉に対して、莉央のはきはきした声はこういうざわめきの中でもよく通る。僕は変な価値観について考えてみて、りんごさんのことを思い浮かべていた。

「たとえば、とある三年生の学生は、講義中にもかかわらず講義をまったく聞かない。ノートに好き勝手な落書きばかりしている、とか。僕にとっての先輩といえばそういう人しか知らない。あとは、友達もつくらずサークルにも入らず、男遊びも女遊びもせず、講義が終われば一直線にアパートに帰って閉じこもってしまう人とかね。これはその三年生の人のことでもあるし、僕のことでもある。つまらないからやめたほうがいい」

「男遊びをしないのも、つまらないことってことですか?」と莉央が身を乗り出す。

「そういうことに興味があるの?」

「ないですよ! というか別にしません、絶対にしないですから。雪葉も絶対にだめだからね、そういうことは」

 莉央は急にぷんすかと怒り始めた。短気な性格なのだろうか。雪葉のほうは「わかってるよ」と軽く受け流している。これが二人にとって通常運転なのかもしれない。

「じゃあ先輩は、ひとりでアパートに帰っちゃうんですか。友達もつくらず、女遊びもせず」と雪葉が言う。

「そういうこと。いいんだよ、僕にはその三年生の人がいるんだから」

「えっ、その人ってもしかして彼女さんとかですか?」

「うん」と僕は頷く。これで僕が女遊びをするような人間だったら、あっさりとりんごさんに見捨てられてしまうだろう。書き間違えた原稿をぽいっと投げ捨てるみたいに。

 彼女さんはどんな人なんですかと聞かれて、僕はさっき言ったこととだいだい同じようなことを答えた。講義を聞かず、友達をつくらないりんごさんについて。僕がりんごさんの魅力的なところを話そうとしないせいで、雪葉と莉央は「ふうん」とつまらなさそうな返事をしただけだった。

二人はお互いに顔を寄せて、僕の方には目もくれず喋り始めてしまった。二人の中にいる空想のりんごさんについて。きっと地頭がいいんだろうとか、僕と一緒にいるために友達をつくっていないんだとか、僕とりんごさんが同棲していて二人でアパートに帰っているんだとか、お化粧はあんまりしなくてすっぴんでもきれいなんだとか、そんなことまで。僕はそのあたりで耳をそばだてるのに疲れて、正しいりんごさんを思い出すのに集中することにした。りんごさんのほんとうの魅力は、僕だけが理解していればいい。

食堂へと続く行列はまだまだ長く、その歩みはカメより遅いように思える。僕は退屈しそうだったけれど、前を歩く二人はまったくそんな素振りを見せなかった。雪葉と莉央の肩を寄せ合う話し方には、他の誰も寄せ付けないような、割り込みがたい雰囲気がある。がやがやとした大行列の騒音の中で、僕には切れ切れの会話しか聞き取ることができなかった。「見てみたいね、先輩の彼女」「うん、会ってみたい」そんな言葉を、僕は微かに耳に拾った。

「どうですか、会わせてくれませんか。先輩」

 それに答えを返すことが、僕にはできなかった。「さあ、どうかな」とか、あいまいな返事で終わらせて、それきり口を閉じていた。りんごさんに会わせていいのか、雪葉の名前を教えていいのか、僕ひとりで判断できることではなかった。

 

 でもその日の夜、僕のアパートに電話がかかってきた。僕に電話をかける人なんて限られている。受話器を取ると、もしもし、もなく、今あいてる? もなく、りんごさんはただ一言を口にした。

『今日ね、一年生の子と知り合いになったの』

 僕は小さく息をのんだ。りんごさんの声に焦りや混乱みたいなものはなく、小説を一章ぶん書き終えたときのような平穏さがあった。

『初めてその子を見たときから、なんとなく気になってたんだけどね。黒い髪でショートにしてて、どちらかといえばおとなしい声をしてた。身長はたぶん百五十センチくらい。薄茶色のかわいいリュックを重そうに背負って、ぽつんと正門横に立ってたの。まだ大学の背景になじめていないみたいにね。葉椛大学の看板よりも体が小さく見えて、それもあって余計にそう思えた。私が最初に見つけたときはその子ひとりだった。雰囲気というか、ひとりで誰かを待っているあの立ち姿が、私はどうしても気になったの。どうしても目を離せなかったの。だってあまりにもつまらなさそうで、寂しそうにしていたから』

「それで、声をかけた?」

『そのときはまだ。五分くらいして、別の女の子がそこにやってきた。髪を後ろでひとつにまとめて、はきはき喋る女の子。二人が横並びで歩き始めたそのときに、私は確信したの。あれは雪葉と莉央ちゃんなんだってわかった』

 りんごさんが小説に書いた「雪葉」と「莉央ちゃん」は、大学に入学してきたあの二人とまったく同じように思えた。姿、背格好、話し方、それぞれのおおまかな性格。りんごさんが誰かを登場人物のモデルに使うことはない。そもそもこれまで現実の雪葉と会ったことなどない。「雪葉」はあくまでりんごさんが生みだした架空の女の子であり、フィクションであり、実際の人物、団体、事件などには、いっさい関係のないはずだった。

 昔の空想漫画にそういうのがあったような気がする。本の登場人物がぽこんと湧き出てきて、僕たちにこう言うのだ。おれの人生に比べれば、おまえらの世界なんてイージーなもんだぜ。

 

『私は、一度でいいから雪葉と話してみたかった。小説を書いているとね、ときどきものすごく不安になることがある。うまく行っているときは大丈夫なんだけど、そうじゃないときに、ふと。ほんとうはこんなことは言わないんじゃないのか? 雪葉は違うことをしたいんじゃないのか? ほんとうは違う場所を選びたいんじゃないのか? 雪葉がほんとうに言いたいことは何なんだろう。そんなことばっかり考える。たぶんこうだろう、たぶんこれで合ってる、そう思いながら書くのって、落ち着かなくて不安になる。

 そんなとき、本人に聞けたらどんなにいいだろうって思うの。私はあなたがこう言うだろうと思って書いたけど、これで合ってる? そんな感じ。そして雪葉はこう言うの。うん、その通りだよ、わたしも同じこと言うと思う、あなたわたしのことよくわかってるね――って。そう言って欲しい。答え合わせがしたい。

 でもそんなこと、できるわけないよね。雪葉は私が生み出した女の子で、私の中にしかいない。私以外でいえば、君は私が書いたものを読んでるから、君の中にも雪葉がいるって、いちおう言えるかもしれない。でも君に雪葉のことがわかる? 雪葉はあんな場面であんなことを聞かれたら、こう言うだろうって、確信を持って言える?

 そうだよね、言えないよ。言って欲しくない。雪葉は私のものなんだから、君に口出しされるのは――ううん、これは違う話だけど、でもとにかく、君よりは私の方が雪葉のことをわかっていると思う。でも、それでも、全部じゃない。私は雪葉の何もかもを理解できているわけじゃない。だからすべてを、正しく理解したいって思う。これって何か間違っているかな?

 私は正しいことしか書きたくない。ちゃんと雪葉を書きたい。間違った姿の雪葉を書きたくないの。雪葉が思ってもいないことを、雪葉に言わせたくない。ねえ、たとえば、大学に入学してきたあの子が、あの雪葉が、私の不安に答えを出してくれるとしたら。雪葉のせりふはその通りで間違ってないよって、そう言ってくれるとしたらさ。君ならどうする?』

 

 僕は少し考えて口を開いた。

「僕は答えを聞かないよ。りんごさんにもそうしてほしいと思う」

『どうして?』

 りんごさんの声は低く、苛立ちを聞き取れた。期待している回答と違ったからだろう。僕は目を閉じて、受話器を左手から右手へと持ち替えた。頭の中を整理して、聞き手から話し手へと入れ替えるみたいに。

「僕は、一年生の雪葉とりんごさんの中の雪葉には、まったく関係がないと思ってる。もちろん、名前や姿や性格、それから莉央という友達が、小説とまったく同じであることは認めてるよ。でも僕がそこに繋がりはないと思うのは、それぞれの生きている場所がぜんぜん違うからだ」

『小説の中と、現実の世界ということ?』とりんごさんは疑わしく言った。

「うん。これから話すのは、僕の勝手な想像というか、妄想なんだけど。本物の雪葉は、僕たちには絶対に手が届かないところにいると思うんだ。それでさ、僕たちが雪葉を知るためには、この世界での仮の姿が必要なんだと思う。たとえば小説の登場人物として。たとえば、生命をもった人間として」

『仮の姿なの? あの一年生の子も?』

「僕は、血の通った人間だから本物だ、とは思わない。だってりんごさんは、あの子のことなんか知らずに雪葉を書き始めたじゃないか。きっとどこか別の世界には本物の雪葉がいて、りんごさんはそれを感じ取ったんだよ。そして仮の雪葉を小説に登場させた。同じように、仮の雪葉が人間として生まれてきた。その二種類どうしには、特になんの関係もないんじゃないかな。僕が言いたいのはそういうこと」

 りんごさんはしばらく黙りこくっていた。電話の向こうで、机の表面を指で叩くような、とん、とん、という音がゆっくりと聞こえている。

『君はそういうことになると、ほんとうに楽しそうに話すよね。よく言えばロマンチックというか、夢見がちというかさ。悪く言えばっていうのは、あえて置いとくけど』

「それは助かる」と僕は笑った。

 僕だって別に、誰彼かまわずこんな妄想を話すわけじゃない。「つまらん」と一蹴されたり、「ふーん」と困惑されて終わったりする相手がほとんどだろうと思う。でも僕は、りんごさんに話したいのだ。

『私には、その本物の雪葉っていうのもよくわからないよ』

「僕の妄想でよければいくらでも話すよ。りんごさんがもし聞いてくれるなら」

『いいよ、聞くよ。寝るまでにはもうちょっと時間あるしね』

 僕がりんごさんに話したくなるのは、こうやってりんごさんが耳を傾けてくれるからだった。なんだかんだ言いながら、りんごさんも実はこういう妄想に興味あるんじゃないの? 僕はときどきそう言いたくなる。でも実際に口にしたら、もう二度と耳を貸してくれなくなりそうだった。

 僕としてはもう、どんな雪葉が本物なんだとか、りんごさんの小説は正しいのかとか、そんなのはささいな問題なのだ。そんなのはどちらでもいいから、りんごさんと長く電話していたかった。これも実際に口にしたら怒られそうだから、僕だけの秘密だけれど。

 

「本物の雪葉っていうのはつまり、自分のことについて何もかも知っている雪葉自身のような……そうだなあ、雪葉が自分で書いた自伝小説とも言えるかもしれない。どこかの国に、古代文字が彫られた大岩があったね。自伝小説が彫られた大岩が、宇宙のどこかにぷかぷか浮かんでいるのかもしれない。りんごさんはそういう存在に、りんごさんが書いた小説が正しいのか教えて欲しいわけだろう?

 でもその存在は、認識もできないはるか遠くにいる。と、僕は思う。たとえば別の惑星とか、もうひとつの宇宙とか、あるいはブラックホールの中とか。過去かもしれないし、未来かもしれない。このちっぽけなアパートの部屋がすべての僕たちには、そんな本物の雪葉には顔を合わせることもできないし、ましてや会話なんてできっこない。自伝小説を朗読することもできない。

 りんごさんは人生のどこかで、宇宙にぷかぷか浮かぶ大岩に、手を触れてしまったんだよ。僕はそう思う。りんごさんの手には、今もその感触が残っている。大岩に彫られた自伝小説の感触だ。それは翻訳するのにとてつもなく時間がかかる。すべてを理解するには人生を使い切ってしまうかもしれない。いや、それでも足りないかもしれない。りんごさんの中にはまだ、雪葉という名前だけを携えた輪郭しかないんだよ。

 りんごさんが書いた雪葉は、その小説の中だけに存在できる雪葉だ。りんごさんの知性、考え方、文章の作り方……。つまりまとめれば、翻訳の仕方だ。りんごさんなりの翻訳をされて、今この瞬間にも成長し続けている。

 それで、そう、最初の話に戻るんだけど。

 あの一年生の雪葉についても考えれば、あの子にも父親と母親がいる。とすれば、その遺伝子を受け継いでいる。あの子の家、両親の育て方、近所の人たち――そういういろんな影響を受けて、あの子はあの子で成長しているんだ。これはもう、りんごさんの中の雪葉と同じとは言えないよ。あの子に答えを聞いたって参考にはならないし、参考にするべきじゃない。

 僕はそう思う」

 

 その日、電話を切る前にりんごさんは『やっぱり聞きたい』と言った。でもその声音には決断しきれていない迷いがあるように思えた。りんごさんはこの選択にも、正解を教えてくれる人を求めていた。でもこれはりんごさんが自分で決めることなのだ。

 焦る必要はないよ、りんごさん。自分でじっくり考えたらいい。その上であの子に話を聞きたいんだったら、僕も一緒にあの子に頼みに行くから。僕はそう言った。

「りんごさん、それともうひとつ」

『もうひとつ?』

「気を付けなくちゃならないのは、小説の中で雪葉が、恋人を亡くした女の子として書かれているということだ。僕たちの態度次第ではあの子を傷つけてしまう。僕たちは敬意をもって、慎重にならなきゃいけない。そのことは忘れないで」