AsahiーSPACE

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りんごさん(5)

 りんごさんはもう小説を書ける状態ではなかった。

 

 ちゃぶ台に広げられていた原稿用紙はまっさらな白紙のままで、りんごさんの涙が落ちたところだけが、鈍い灰色に染まっている。アイデアノートは判別のできない文字で溢れ、ぐしゃぐしゃのシワだらけになっていた。青いシャープペンシルはりんごさんがずっと握りしめていて無事だったが、まるでその身代わりのように、鉛筆が半分に折れてちゃぶ台の下に転がっていた。いったいどれだけの力を込めれば鉛筆が折れるのか、僕には見当もつかなかった。

 りんごさんは僕の胸に顔を埋め、しばらくわんわんと泣き続けていたけれど、数分ほど経ってことんと眠ってしまった。ベッドに運ぼうと抱き上げると、彼女の体が不自然に重く感じた。鉛の服を着ているのか、見えない重しが乗せられているのか。その正体はわからなくて、僕はただその耐えがたい重みだけを感じ取った。

 

「来てくれてよかった」とりんごさんは言った。

 もう時刻は夜の十時を回っている。僕たちは結局、一日中をベッドの中で過ごした。りんごさんは僕と手を握り合い、髪を触り合い、鼻の先を擦り合った。ベッドの薄い掛け布団を頭からかぶり、そこは照明がひとつもない暗闇の部屋で、更に深く暗いところだった。時折、窓の向こうから車のヘッドライトが差し込んだ。でもそれは天井や壁の何もないところだけを照らし、僕たちが影の中から出ることはなかった。

「見たことのない泣きようだったよ。りんごさん」

「そんなに泣いた?」

「うん。僕のシャツがぐしょぐしょになって、着替えなきゃならなかったぐらい」

 目をこらしても彼女の輪郭くらいしかわからない。僕は手探りでりんごさんの耳に触れ、かすかな体温を持った肌を撫でた。彼女の額が僕の胸元にある。胎児みたいに背中を丸めて、僕の腕の中にいる。りんごさんがとても小さなひとのように感じられた。

「またぐしょぐしょにしてしまいそう」と彼女は呟いた。

「いいよ。また着替えればいいだけだから」そう僕は答えた。

 僕たちは隣り合わせのパズルみたいに、ぴったりとお互いを埋め合っていた。僕は小さなりんごさんを両腕で包み、彼女の右手は、僕のシャツの襟を握って離さなかった。僕たちの手足はパズルが外れてしまわないためにあった。僕はへこみを持ったほうで、彼女は小さく丸まった出っ張りのほうだったと思う。僕に足りないところをりんごさんが埋めてくれた。りんごさんに足りないところを、埋めてあげたいと僕は願った。

「キスしていい?」と僕は聞いた。

「キスだけなら」というのが彼女の答えだった。

 ぎこちなく唇を合わせる。まるでそれが人生において初めてであるかのように、おそるおそる動く。僕たちは狭いベッドの中でキスをするために、がんばって首を伸ばしたり縮めたりしなければならなかった。りんごさんは小説ばかり書きすぎて、キスのやり方も忘れてしまったのだろうか。

 服と、掛け布団が擦れて、さわさわと音を出す。それ以外に音はない。互いの息づかいは落ち着いたまま、触れるか触れないかのキスを繰り返す。息が苦しくなる前に口を離す。僕たちのキスには隙間があった。これがりんごさんの求めるかたちではあったけれど、僕には物足りなさしか残らなかった。できることなら今すぐにでも、目の前の体を強く抱きしめ、そのすべてを奪ってしまいたかった。でも僕にそれはできない。りんごさんがこれを求めてくれるまで今日一日かかったのだ。今これ以上を求めれば、きっと彼女は力を振り絞って僕を突き飛ばすことだろう。

「ごめんね」とりんごさんは僕に伝えようとしていた。その四つのひらがなを、触れあわせた唇の動きから、直接感じることができた。

「りんごさんは謝らなくていい」

「ごめん。これだけ、これだけにさせて」

 僕たちは少しだけ長いキスを交わした。ふと、舌の先どうしが一瞬だけ触れあう。それだけで、焦らしと欲望と自制で頭がくらくらとして、目の奥がちかちかとする。たったそれだけの仕草が、二週間くらいお預けをされている僕にどれだけの刺激を与えているのか、りんごさんには知る由もない。でもこれが彼女なりの、精一杯の謝罪のしるしだった。

 

「手が大きいね」と彼女は言った。

 僕の右手がりんごさんの頬に押しつけられる。その上から彼女の手が押さえて離してくれなかった。僕の右手はりんごさんの体温に挟まれて、むず痒く、熱かった。

「きみの手が大きいところが好き。肩幅が広いところが好き。泣かせてくれる、その大きな胸元が好き。泣いてもいいって、包んでくれる、そういう男らしいところが好き」

「恥ずかしくなるな。どうしたの? 急に」

「これって、普通だと思う? それとも変?」

 りんごさんは細い体でそう聞いた。とても不安そうに。

「僕の体を好きになることが?」

「うん。男らしい男の子を、きみを、そういう理由で好きになること」

 彼女が僕に触れる指は、僕のものよりもずっと細く、白かった。弱々しく、静脈しか通っていないように思われた。言われてみればそうかもしれない。僕も、りんごさんのこの指を愛おしいと感じる。

「普通、なんじゃないかと思う。たぶん。体とか外見から好きになる人はたくさんいると思うよ。顔も大事だろうし。僕だってりんごさんの顔つきが好きだ」

「ほんとうに? それは、私が女の顔だからってこともある?」

「ほんとうだよ。りんごさんの顔は、女の子らしい小さくて可愛い顔だから」

 目の前に彼女の顔があることがわかる。暗闇で見えないけれど、僕はそこに喜怒哀楽のすべてを思い出すことができた。彼女の表情は、ひとつひとつ別の文字を持つようにころころと変わった。何も言わず黙っているときでさえ、そこには僕を引きつけるものがあった。何を考えているんだろうと、僕の想像をかき立てられるような。またあるときには、異性へ送るメッセージのようなものも、彼女の表情から読み取ることができた。

 りんごさんは、口をつぐんで何かを考え込んでいるように見える。僕は今ここに留まって待っていた。しばらくして「でもね」とりんごさんは言った。

「でも雪葉は違うって言ったの」

「違う?」

「もちろん私とも違うし、私が書いた雪葉とも違った。好きのなりかたも、好きの意味もたぶん違った。私が思っていた雪葉と、あの子はぜんぜん違ったの」

 その先を口に出してしまうかどうか、りんごさんは迷っていた。その先まで言ってしまえば、おそらくりんごさんは何もかも最後まで話すことになるだろう。一から百まですべて僕に教えなければならなくなる。そうなれば僕も知らないままではいられなくなり、加担したなら責任をとらなければならなくなる。行き着くのは、二人まとめて罰せられるか、道連れに地の果てまで逃げるかどちらかだった。まるで少女誘拐の共犯者のように。

 だから僕は聞いた。「雪葉は何を言ったの?」と。

 りんごさんは細く細く息を吸い、震えながら吐き出した。次に口を開こうとしたとき、もうそこに震えはなかった。

「あの子は莉央ちゃんと付き合ってるって言ったの」