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りんごさん(6)

「私は莉央ちゃんと付き合っているんです」

 

 四月二十六日の水曜日だった。時刻は十七時を少し過ぎた頃。りんごさんのアパートの部屋で、彼女は雪葉からその言葉を聞いた。部屋の中はよく片付けて整えられて、今よりは格段に過ごしやすかったに違いない。

 ふたりはちゃぶ台を挟んで向かい合っていて、ちゃぶ台の上には半分くらい埋まった原稿用紙と消しゴムが二個、半分くらい無くなったポテトチップスに麦茶のカップが二つ並んでいる。

「どうして」とりんごさんは尋ねた。

 雪葉は右を見たり上を見たりして、少しの間考えていた。

「どうして、と聞かれても、そうなりたかったから、としか言えません。付き合い始めたのは高校二年のときですけど、私それまで誰とも付き合ったことありませんでした。漠然と、彼氏が欲しいなって思っていただけでした。だから、彼氏彼女がしているようなことを莉央ちゃんとするのかなって思っても、始めはよくわからなかったんです。でも私、それも楽しそうだなって思ったんです。

 ごめんなさい。言わないでおこうと思ったんです。でも、でもりんごさんはたぶん、私にすごく期待してますよね。そこに嘘ついてるみたいで、悪くて。ごめんなさい」

 ごめんなさい、と雪葉は言った。まるで何かとても酷いことをしたかのように、頭を下げて、そのまましばらくは頭を上げなかった。りんごさんは、何も正しくないことがこれから始まろうとしているのを感じ取っていた。

「雪葉は、莉央ちゃんがいいの?」

 尋ねて五秒くらい経ってから、やっと雪葉は少しだけ顔を上げた。でもこちらの方は見てくれることなく、ただちゃぶ台を見つめている。ポテトチップスの欠片か、消しゴムの消しくずでも探しているようだった。

「付き合うなら男の子、ってあたりまえのように思ってました。でも、特に誰も好きになることがなかったんです。男の子が気になったこともないし、逆に告白とか、そんなのもされたことなかったです。彼氏は欲しいと思ってたけど、彼氏作ろうとはしていませんでした。

 そんなときに、莉央ちゃんに言われたんです。好き、って。私なんのことか、よくわからなかったけど、好きって言われたのは嬉しかった。嬉しいって思っちゃったんです。私は、莉央ちゃんと一緒にいるのが一番です」

「ほんとうに誰もいなかったの? 雪葉を気にする男の子も」とりんごさんは聞いた。

「ちょっと、もしいたとしても気づかなかったし……」

「じゃあこれから先、もしそういう男の人がいたら?」

「男の人……。でも、莉央ちゃんと別れるのは、想像できない、ですね」

 りんごさんは息を止め、口を閉じた。そうしないと、混乱した脳みそがぼとぼとと口からこぼれてしまいそうだった。

 小説の中にいる「雪葉」は、恋人である「タクヤ」の行方を求めてどこまでも旅を続けていく。「タクヤ」を知っている者、「タクヤ」を装ったもの、いろんな壁を乗り越えて、最後に巡り合わせの再会をする。それがりんごさんのずっと求めてきた物語であり、「雪葉」のかたちでもあった。

 りんごさんの頭の中に、突如として違うイメージが現れていた。ようやく「タクヤ」に再会できるというその一歩手前の直前で、「莉央ちゃん」に横から言われる。好きだ、と。「雪葉」は言う。ほんと? 嬉しい、ありがとう……。そのままふたりは手を繋いでどこか知らないところへ去っていく。舞台が暗転する。りんごさんは目の前が真っ暗になる気分を味わった。そこでは「タクヤ」が、もうすでにいないものとして扱われた。そんな結末は、りんごさんが求めてやまなかった物語には百パーセント無関係だった。

 頭蓋骨がぎしぎしと軋む、その音が聞こえる。視線を落とせば、半分ほど書いた原稿用紙があった。今までがんばって書いてきた中の、最新の一枚。りんごさんが見つめていると、急にその文字がすべて上下逆さになったような錯覚に陥った。何を書いていたのかひとつも読めない。自分の書いた文字なのかも自信が持てなくなっていた。それから、いつも離さない青いシャープペンシルが消えていた。手の中にも、ちゃぶ台のどこにも見つからない。

 麦茶の入ったコップを飲む。麦茶を飲んだが、コップを飲み込んだような気もした。プラスチックのコップの味がしたが、よくわからない液体はよくわからない味がした。

「雪葉のクラスメイトに、タクヤって人いない? いなかった? クラスメイトじゃなくてもいい。話すことのできる男の子」

 りんごさんのその質問に、雪葉はぐっと眉を寄せた。右手を口元に寄せ、視線はちゃぶ台の一点に固定されている。射貫くような厳しい眼差しだった。ちゃぶ台の薄い板など簡単に貫通して、真っ二つにしてしまいそうな。それくらい真剣に記憶を探しているのだとわかった。雪葉が顔を上げたのは三十秒以上経ってからだった。

「いないです」と雪葉は言った。

 その声が、室内にうつろに響く。「いないです」雪葉の声であるはずなのに、りんごさんは耳を塞ぎたかった。「いないです」救急車がサイレンを鳴らして追い越していくときのように、音階を微妙に変えながら、何度も何度も繰り返される。「いないです」誰もいない、タクヤはいない、違う、違った、合ってない……。りんごさんの中で単語だけが暴れ回り、ぶつかり合った。「いないです」受け入れたくなかったけれど、それはひとつの証言だった。雪葉はたしかに言ったのだ。「いないです」と。

「どうして」とりんごさんは尋ねた。

「ごめんなさい」と雪葉は呟いた。

 どうしてって聞いたのに、ごめんなさいって言われるのは、何か間違っている。りんごさんは国語のテストでも採点するような気分を、ぼんやりと感じていた。

 なんで雪葉は謝っているんだろう。りんごさんはそう思った。なんで自分は、この子に謝らせているんだろう? ごめんなさいって、雪葉が言うべきことなのか? でもその考えはりんごさんの中にもんもんと留まるだけだった。次に何を尋ねればいいのかわからなかった。

「ごめんなさい、りんごさん。今日は帰りますね」

 雪葉が自分のコップを手に取り、腰を上げ、リュックを背負う。りんごさんは未練がましく目で追った。まだ、何かを尋ねたい、何かを問いただしたい、そんな気持ちだったのは確かだが、雪葉の方がそれを許してくれていないような気がした。たぶん雪葉は、もう何も言うつもりはなかったのだ。伝えるべきことを伝え、謝るべきでもないことを謝り、もうこれ以上、口を開くつもりはなかったのだ。

 雪葉はキッチンへ行って蛇口を捻り、コップをさらりと洗ってどこかへ置いた。

 これから雪葉は、ここより二倍以上広い自分のアパートへ帰るのだろう。莉央ちゃんと一緒に住んでいるって、そういうことだったのかとりんごさんは思った。ふたりで夜ご飯を作るのだろうか。ふたりでご飯を食べて、並んでテレビを見て、順番にお風呂に入るのだろうか。雪葉と莉央ちゃんは、同じベッドで眠るのだろうか。そんなふたりの部屋は、そのアパートは、いったいどこにあるのだ? 

「また、来てもいいですか」と雪葉が聞いた。

 りんごさんはすぐに現実に引き戻された。「うん」と答え、「いいの?」と言い、また「でも」とも言った。最後にまた「うん」と答えた。

 雪葉はまるで泣きそうな微笑みを見せたあと、ドアを開けて部屋を出て行った。静かにドアが閉められる。雪葉がいなくなった部屋は、照明が一段階だけ暗くなったようだった。ずしんと静寂が訪れる。バックミュージックが終わり、バックダンサーが踊りをやめ、舞台からは何もいなくなったみたいだった。狭いなあと思っていたワンルームも、今は全然いらないほど、広い。りんごさんはもう何も書くことができなかった。書くべき「雪葉」が自分の中に見つからない。雪葉が帰ってしまったのと同時に、「雪葉」も書きかけの原稿用紙から去ってしまったのかもしれなかった。