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りんごさん(1)

 りんごさんは、ずっとその小説を書き続けている。

 

 僕が大学に入学して彼女に出会う前から、りんごさんは小説を書くことをライフワークとしていた。りんごさんはひとつ上の先輩だったけれど、学業面に関して参考になることは何ひとつ教えてくれなかった。学部も最低限しかとっていなかったし、サークル事情にも疎いような人だ。でもそのかわり、りんごさんにしか作り出せない世界を、僕にも少しだけ覗かせてくれた。

 りんごさんが書く小説の主人公は「雪葉」という。「雪葉」はある日、交通事故で恋人を亡くしてしまう。「雪葉」はどうしてももう一度、恋人に会いたくて、怪しげな男の誘いにのって死後の世界へ行くことになる。恋人の名前を「タクヤ」といった。

 長い孤独を耐え、恋人を探し続けて、最後に「タクヤ」と再開する「雪葉」を書くのが、りんごさんの目的だった。それを完遂するために、りんごさんはそれ以外のほとんどすべてを犠牲にしていた。大学での青春も、学業で目指す高みも、自分の恋人と過ごす時間も、削れるものは削ってしまい、あるものは完全に切り捨て、あるものは小説の糧とした。りんごさんの恋人の席にはいちおう僕が座っているけれど、その関係はたぶん一般の恋仲とはちょっと違うと思う。

 りんごさんはその物語について、いろいろなことを教えてくれた。

 

「雪葉は最後にようやく恋人と再会するんだ。でもそのときには、タクヤはまったく別の姿へと変わり果ててしまっているの。長い間、離れ離れになってしまったからね。雪葉は一度タクヤから逃げ出してしまって、そこで親友の女の子と会う。この親友の子が私の一番のお気に入りなんだ。名前は莉央ちゃん。雪葉は莉央ちゃんに背中を押されて、もう一度タクヤと向き合うんだ」

 年季の入っていそうなノートを手に、りんごさんはそう言った。書いた原稿を読ませてくれることはあったけれど、そのノートを見させてもらったことは一回もない。りんごさんはそれをアイデアノートと呼んでいた。

 りんごさんのアパートの部屋の、窓際に置かれた直径一メートルくらいのちゃぶ台。そこが彼女の主戦場といえる。ちゃぶ台の中央に原稿用紙、その右側に消しゴムが二個、左側にアイデアノートが置かれる。ちゃぶ台の隅っこに、貰いものの国語辞典がある。りんごさんはちゃぶ台の前に座り、原稿用紙と正面から取っ組み合いをしているように見えた。

 代わりのない相棒として青いシャープペンシルを右手に握り、花の飾りがついたヘアピンで前髪をとめていた。僕はそんなりんごさんを後ろから見守るのが好きだった。彼女の顔も好きだったが、後ろ姿も同じくらい好きだ。こっそり写真を撮って携帯電話の待ち受け画面にするくらいには。

 

 僕は、りんごさんが小説を完成させるのをこのまま待っていようと思っていたのだが、大学二年に上がると少し状況が変わった。状況が変わったというか、僕たちの考えるべきことが、以前と比べて簡単ではなくなった。

 僕は僕の生きるこの世界で、書き直しのきかないこの現実の世界で、雪葉と出会ってしまったのだ。雪葉はひとりの女の子で、がんばって入試に合格してこの大学に入学してきた一年生だった。

 大学の廊下でふたりの一年生に声をかけられて、その子たちは「一年生の教室はどこにありますか」と僕に聞いた。その子たちが名乗るまで僕は気づかなかった。気づくわけがない。ふたりはそれぞれ、雪葉と莉央と名乗った。廊下をぼんやりと歩いていたら、ハリウッドスターに声をかけられたような気持ちだった。