AsahiーSPACE

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セカンド・スカイ (プロローグ)

 眼下に広がる雲海と、それをゆっくりと動かす横風。

 横を見れば、遠くを流れる巨大な雲と、それに隠れた太陽の欠片があった。

 何をすることもなくその風に身を任せ、ケイはぼんやりと景色を眺める。

「いつ見ても、凄い光景だよねぇ」

 横からアユハがぽつりと言って、その白い息が冷えた空気にふわりと溶ける。

「そうだな」

ケイは短く返してから、両手を擦って暖めた。

 着ているのが内部の温度調整もできる特殊スーツとはいえ、それは気休め程度の機能でしかなく、顔や手に染みる空気の棘のような冷たさは遮ることができない。ここは標高が二千メートルくらいの場所。加えてこの身一つで空の上。

 空の上――それは、人類が手に入れた、二つ目の居場所だった。

 

 

 どこまでも広がる雲海を見下ろしながら、一つ、小さな溜め息をつく。彼等がかつて過ごしていた地上は、昔の華やかさが見る影もなく蝕まれた。その地に降り立つことはおろか、近付くことすら拒絶され、人類を含む地上生物は足場を失い宙ぶらりんになった。

 視線を上向けると、ケイやアユハ、そして人類の第二の故郷が小さく見える。

 それを眺めて、よくここまで人間の生活を立て直すことができたな、と思う。地上という唯一の生き場所を失って、生きていけなくなるはずだった。

 空に浮かぶ鋼鉄の島々。そこに作られた都市。

 技術の多くを失い、大陸資源のほぼ全てを失い、それでもがむしゃらに足掻いて抗って、ようやく手に入れた人類の拠り所だ。

 

「ね、覚えてる? 十年前の、あの日」

「ああ、よく覚えてる」

 十年前。ケイは八歳だった。

 思い出す。全てが変わったあの瞬間。

 

              *

 

 それは四月とは思えない気温の高さで、歩く道路が陽炎に揺れ、風は吹いているくせに変に生暖かく、地上を熱するフライパンのようになった大地。とにかく暑い、熱い日だった。

 テレビはどこの局を見ても異常気象だと騒いでいたのを覚えている。

 海に行こうと誘われて、行ったら案の定、涼みに来た人達でいっぱいで。

 遊泳エリアの端っこの、浅くてぬるい海の水をすくって互いにかけ合った。

 それが、人生最後の海遊びとなった。

 

「……避難して下さい! 高いところに行って下さい!」

「……こっちは行ったらだめだ! 溢れてきてる!」

「……助けて! たすけてくれぇっ」

「……いやだぁっ、熱い、あづぃ、ぁああぁあ」

「……海! うみに入れえっ」

 

 大地が燃えていた。

 大地が赤く染まっていた。

 その時どうしたのかは、ケイはもう覚えていない。ただぼんやりと浅瀬に立ち尽くして、燃え盛る大地と逃げ惑う人々を眺めていたと思う。それから、今まさに目の前の砂場の下から溢れてきた、赤く染まる何か。それは肌を切り裂くような熱と、不快な匂いを伴ってケイの体に近付こうとしていた。

 海に逃げた。放り出された誰かの浮き輪があったから、それを使って。足が付かなくなるほど進んでから、不安になって振り返ると、広くなった視界に砂浜全体を見ることができた。

 地獄――。

 幼い頃に、読んだ本。この世界よりも下の深い暗闇の中にあるという、悪行をなした亡者がその身に罰を受ける場所。

 本で見た炎地獄の絵が、目の前の光景と重なる。

 

 荒れるように、狂うように吹きすさぶ炎は、亡者も生者も善者も悪者も区別なく、耳が痛くなるような人々の悲鳴とともに、轟々と大地を灼熱に塗り潰していた。

 

              *

 

 あの日、突如として地面から大量に溢れ出た〝それ〟は、海抜の低い場所から始まり、大地の全てをゆっくりと浸食していったという。

 その星にある大陸の全て。大地の全てを、進行の早さに差はあっても、あの最初の日から数年が経つ頃には大地全体が赤に染まっていた。

 原因不明。実体不明。

 赤く輝き、膨大な熱を放つ流動体。更には有毒物質。成分は不明。まるで地球上の有毒物質を無理やり混ぜ合わせたような、強い腐食性を持つ未知の毒。

「ケイはどうやって助かったの? 私は割と高いところに住んでいたから、救助が間に合ったんだ」

「俺は、あの日は海にいた」

「えっ」

 アユハが目を見開く。当然だろう。あれは海抜の低いところから溢れてきた。ケイも自分の目で見たように、あの時砂浜にいた人々は、ほとんどが犠牲になった。

「海に逃げていたら、船が来てくれたんだ。それで助かった」

 そう、とアユハが呟く。船が来てくれなかったら、ずっと海の上で立ち往生だった。それからケイは船の中で、同じように救助された人達と一緒に何カ月かを過ごした。あれからずっと海には行っていない。

 横でアユハが、小さく息を吐く。

「もう……戻れないのかな」

 答えが思い浮かばず、ケイは遠くの地面を見下ろして考える。

 真っ赤に染まる溢れたそれは、地面の起伏に応じて凹凸を作り、流動的な性質を持って高低差でずるずると動いたり、風にあおられて形を変えたりしている。それはまるで、空に浮かぶ雲が炎を伴って地面に落ちてきたようだった。

 かつて山だった場所は形をそのままに色が入れ替わって燃え盛り、かつて大都会だった場所は、絢爛なビル群が赤い雲の持つ毒に溶かされ、斜めに傾き、あるいは倒れて沈んでいる。

 帰る場所など無い。どこにも。

 けれどそれをはっきりと言い放つ度胸は、ケイには無かった。

 ただ無言で、大地から目を離す。ケイが視線を向ける彼方の空を、その意味をアユハも理解したようだった。

「空の上での生活も、悪くないと俺は思う」

「うん……そうだね。あそこが、私たちの今の故郷だよね」

 風が、少し強くなる。気付けば、遠くにあった太陽は空の下方に逃げていて、夕刻を知らせるように和やかなオレンジ色を空に溶かしていた。

「そろそろ行こう」

「うん」

 空の一点を目指して、ケイとアユハはその体をゆっくりと飛翔させる。

 進む先には、巨大な鋼鉄の都市。空に浮かぶ、人類の拠り所。

 これから暗くなる空に備えて光る明かりが、都市全体をきれいに彩る。空上都市はいくつかあるとはいえ、生きるための最小限の設備しか整っていない狭いところだ。

 人が住むにはぎゅうぎゅう詰め。海上都市にも限りがあるし、そもそも海上都市はとある理由で多くは作られないから、本当にあそこで生きるしかない。

 それでもケイは、自信を持って答える。悪くない、と。

 空上都市と、大地に溢れる赤い雲。その中に、知ってしまった魅力と、分かってしまった自分の生き方があったから。

 

              *

 

 人類は、それを〝死雲〟と呼んだ。

 地上生物の全ては生きる場を追われ、その一部は海の上に、残りのほとんどは空に生きることになった。その星にある技術を全て結集して、ようやく生きるのを許された天の上。

 死雲を取り除く試みも、一応進められてはいる。けれど、人類が死雲について理解できたのはほんの一握り。

 十年前に現れた地獄の雲は、大地に近付くあらゆるものを拒絶しながら、ただ静かに今日も漂い続けている。